我が子が、芸術家になりたい、などと言いだしたら大問題だ。なぜ問題かというと、芸術家は金を稼げる可能性が低いからである。それでなくとも長い人生を生きていくのはややこしい・・・けれど、単純だ。お金さえあれば、とりあえずは生きていける。お金がなければ生きていけない。そのことを大人の誰もが知っているから、我が子が、芸術家になりたいと言いだすと問題になるのである。しかし、実は絵や音楽や文章を職業にして稼ぐということは、さほど難しいことではない。儲けるためには人が好みそうなものを創ればよいだけのことなのである。単純なことだ。それを目指しているのに売れないというのは、努力が足りないか、よほど勘やセンスが悪いのだ。商品としての絵や音楽を作る人でなく、芸術家として生きていくのが難しいというのは、その仕事が、いわば、魂をかたちにして出現させることだからである。そのことに挑戦し続ける人間が芸術家なのだ。しかし、魂は誰も見たことが無い。かたちの無いものである。それをかたちにするのが大変なことなのだ。ここでいう芸術家とは職業名ではなく、人の生き方を表す言葉だ。だから目指すものでもないが、その道を歩もうとする人は少なくない。けれど、生涯をかけて努力しても魂をかたちにして出現させることが出来ない人が多い。それが現実だ。だから世間は作品と呼ばれる残骸で溢れている。それ風なものや、生煮えというか、空回りというか、見当外れというか、そんなものばかだ。
魂がどんなものかはわかりにくいが、子供から大人まですべての人が等しく持っていることは確かである。それらが大人しく鎮まるためには、自分が愛し、自分を愛してくれる人達に包まれていればいい。そこに安らぎがあり、そこに埋もれていることが気持ちいい。そこでは、芸術など必要ない。そんなの鬱陶しい。それに、芸術作品に触れなくても日々の営みの中で、魂を感じさせる仕事や人に出会うことも多い。誠実で美しい商品もたくさんある。だから、このところ僕は中途半端な芸術に触れるより、芸術ではない分野で魂を感じさせる仕事を続けている人々に関心を寄せていた。しかし先日、真の芸術に触れた。魂を感じさせるのではなく、魂そのものがかたちになって出現していたのである。6月6日月曜日の夕方。大分市内、アトホールでのライブで遭遇した渡辺琢磨という人のエレキピアノの演奏。これには芸術でしか味わうことのできない感動を覚えた。久々のことである。ほとんどの音楽は、あらかじめ存在する音を上手になぞるようなものだが、彼の演奏はコンマ1秒ごとに脳と身体の反応で、音を立ち上げる。耳馴染みのあるフレーズをモチーフとして、それを茶化しながら変容させ、拡大させ、分解し、疾走し、断絶する。滅多に体験できないことだが、まさしく、魂というかたちのないものをピアノの前に出現させていた。それが、僕の魂を揺さぶり続けたのである。彼が、音楽で稼いでいるか貧しいかは知らない。ただ、生きている間にあの演奏を何度でも聞きたい。今更ながら、真の芸術は存在価値があると再認識した夜だった。
二宮圭一( 美術家 )
CONKA Vol . 86 二宮雑感 「芸術との遭遇」より
